見た​目の​美しさと​アクセシビリティを​戦わせないで

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UX MILKに投稿されていた見た目の美しさとアクセシビリティのパラドックス 原文 The Aesthetic-Accessibility Paradox を読んで思うところがあったので考えを整理しながら

見た目が美しくアクセシブルはパラドックスではない

記事の中では

アクセシビリティの目標は多くの場合忘れられがちな少数派のニーズを満たすこと

The goal of accessibility is to meet the needs of the minority because they're often forgotten

反対に、通常の視力をもつ人の目には美しいインターフェイスが好まれます

On the flip side, highly aesthetic interfaces are easier on the eyes of the normal-visioned

と前置きされている。

まず、アクセシビリティの目標は忘れられがちな少数派のニーズを満たすことだけではなく、あらゆる人が、どのような環境においても利用できる、利用しやすいようにすること だと考えている。

なので、続く

アクセシビリティにおいて高度なインターフェイスは、視覚障害のある人には見やすいものですが、通常の視力をもつ人の目には疲労を与えやすいでしょう

Highly accessible interfaces are easier on the eyes of the visually impaired, but harsher on the eyes of the normal-visioned

に関しては、通常の視力を持つ人の目に疲労を与えやすいインターフェイスは高度にアクセシブルなインターフェイスとは言えないのではないか。

また高いコントラストであれば見た目が美しくないのであろうか。それもまた違うはずだ。高コントラストだからこそ美しい、そういう見た目もあるはずだ。

この記事の中の見た目の美しさアクセシビリティはあまりにも一義的に思える。

「低視力のユーザーでも認知できる、またはしやすいコントラスト比が高い見た目」で「ポップで淡い印象の表現(これは私の感じ方)」と狭く狭く見た場合、それはパラドックスかもしれないが、見た目が美しくアクセシブルはパラドックスではない。

コンフリクトするケースはある

見た目の美しさとアクセシビリティは違う価値なので、部分的にコンフリクトすることはもちろんある。例えば

など。他にもコンフリクトする組み合わせはたくさんあり、数多くのデザイナーを日々悩ましているし、私もその一人だ。

コンフリクトした場合において、見た目の美しさ、求められる表現とアクセシビリティ、コンテンツとユーザーの間に障害がある場合でも使える、のどちらかだけに極端に偏ることなくバランスを取ること自体は、私はとても賛成するし、それができる人をとても尊敬する。

対立構造にしないで

バランスを取ることは重要だ。しかし、コンフリクトするたったひとつの例を取り上げて Aesthetic vs. Accessibleと対立構造にあるように見せてしまうのは、真に避けるべきことではないだろうか。

私は(主にウェブの)アクセシビリティの専門家として仕事をしていて、自分の考えが偏ってしまう可能性と常に向き合っていなければならない。現にふざけて対立構造にあるような表現をしてしまい、同僚の信頼を失ったことがある。今もまだ強く反省している。

そういった自分の考えの偏りを戒める、という意味でこのパラドックス的なる反力を自分の中に持っておく、という主張なのだろうとも理解している。(記事の著者はアクセシビリティについて専門的で有用な記事を書いている)

だけれども、多くの場合、アクセシビリティの専門家と見た目の美しさの専門家は役割が分かれていて、組織も異なることもあるだろう。この記事のタイトルや記事中の表現は、本来ならば良いものを作ろうと同じ志をもっているチームのメンバーを、分断し、対立構造においてしまうかもしれないし、無意識的に対立構造であるかのように思わせてしまうのではないか。

私たちは、それぞれにとっての利と害を交渉し取引する関係者なのだろうか。

この記事を読んで、巻き起こる自分の感情を整理しながら何度も読み返してるうちに、改めてこれまでの自分の足りなさを反省するとともに、「見た目の美しさ」と「アクセシビリティ」だけでなく、さまざまな価値を尊重し発揮できるようにありたいと、そう思った。